2019年3月17日、東京都内でロック歌手や映画俳優としても活躍した内田裕也さんが死去していたことが明らかになりました。
内田裕也さんは、今年の年明けから急に体調が悪化し、肺炎のため17日に亡くなったそうです。
内田裕也さんと言えば、女優の樹木希林さんの夫としても知られており、2018年9月15日に亡くなられた際には、大変ショック受けていて、心の整理がつかない状態だったようです。
それからわずか半年での今回の内田裕也さんの死去。もしかしたら精神的にかなり影響を受けていたのかもしれませんね。
そんな内田裕也さんと樹木希林さん。どうやらお二人の馴れ初めや結婚生活が世にも不思議と話題のようです!
また、裕也さんの若い頃の画像がイケメン過ぎてヤバかったので、今回は、内田裕也さんの若い頃や樹木希林さんとの馴れ初めや結婚生活についてまとめていきたいと思います。
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目次
内田裕也さんが樹木希林の死から半年後の死去!?
【歌手の内田裕也さん死去 79歳】https://t.co/rxiudVJmDO
ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也さんが17日、東京都内で死去した。79歳。18年9月15日に妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれ、喪失感が消えない中での死となった。
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) 2019年3月17日
ロック界や俳優業界でも活躍していた内田裕也さん(享年79歳)が3月17日、東京都内で死去していたことが明らかになりました。
今年の年明けから急に体調が悪化し、それから約3ヶ月後、肺炎のため亡くなられたそうで、
亡くなられた際には、1995年に俳優の本木雅弘(53)と結婚した長女の也哉子(43)らが裕也さんの遺体に寄り添っていたそうです。
内田裕也さんと言えば、晩年は病気やケガに悩まされる生活が続いていました。
2016年11月に英国ロンドンのホテルの浴室で転倒し、尾てい骨を強打。
2017年の夏には転倒して右足甲を骨折。さらに同11月に脱水症状を起こして緊急入院するなどと、大変な日々を送っていたようです。
それでもロッカ歌手として完全な復帰を目指し、リハビリを受けたそうですが、やはりに年齢のせいもあり、日に日に体力は低下していってしまったそう。
裕也さんが主催する恒例の年越しライブ「ニューイヤーロックフェスティバル」にも2017年からは車椅子で出演し、なんとか執念で立ち上がり、熱唱していたそうです。
こちらが内田裕也さん最後の「ニューイヤーロックフェスティバル 2019」となりました。
また、12年から毎年欠かさず参列していた3月11日の「東日本大震災の追悼式」も今年は残念ながら欠席していたようです。
79歳なんにも関わらずかなり勢力的に活動されていましたが、かなり体を酷使されながら生活していたのかもしれません。
亡くなる直前までライブしていたのはさすがは内田裕也さんと言ったところでしょうか。
内田裕也さんのプロフィール
芸名 | 内田裕也(うちだ ゆうや) |
---|---|
本名 | 内田雄也(うちだ ゆうや) |
年齢 | 79歳(2019年3月時点)(享年79歳) |
生年月日 | 1939年11月17日 |
出身 | 兵庫県西宮市 |
身長 | 174cm |
血液型 | B型 |
職業 | ロック歌手、音楽プロデューサー、俳優、映画監督 |
配偶者 | 樹木希林(1973年 – 2018年死別) |
著名な家族 | 内田也哉子(娘)本木雅弘(娘婿)内田伽羅(孫) |
口癖は「ロケンロール」で、ロックミュージシャンである内田裕也さん。本名は内田雄也さんと言い読み方は同じです。
裕也さんは、1939年11月17日に兵庫県西宮市に生まれ、1959年に『日劇ウエスタンカーニバル』で本格的に歌手デビューを果たしました。
その後、『内田裕也とザ・フラワーズ』のヴォーカリストとして活動し、『フラワー・トラベリン・バンド』のプロデュース活動や、1970年代後半からは俳優や映画監督などとしても活躍するなど、幅広い才能を見せていました。
また、映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本を手がけるなどしています。
内田裕也がロッケンローラーになるまでの生い立ち
内田裕也さんは、1939年11月17日に兵庫県西宮市に生まれ、大阪府堺市で幼少期、少年期を過ごしました。
地元である堺市立大美野小学校に入学し、そのまま堺市立三国丘中学校に進学すると、清教学園中学校、大阪市立旭陽中学校と大阪府内の中学校に転校を繰り返しています。
少年時代はかなり真面目で勉強熱心なタイプだったようで清教学園中学時代には生徒会副会長も務めてたようです。今でさえ破天荒なイメージがありますが、とても意外な一面ですよね。
その後、高校に入学すると徐々に現在のロックンローラーとしての内田裕也さんを形成したであろう時期に突入していきます。
1955年に大阪府立旭高等学校へ入学すると、ミュージシャンであるエルヴィス・プレスリーに憧れ学校を退学します。翌年1956年に再び大阪府立三国丘高等学校に転校します。
1957年には、高校卒業後、日本大学法学部の夜学に入学するとすぐに中退。バンドマンとして音楽活動をし始めました。
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内田裕也のイケメン過ぎる若い頃(画像)とバンド結成時代
内田裕也さんは、音楽活動を始めると、すぐに佐川ミツオ(現在は佐川満男)とともにバンドボーイ兼ヴォーカルとしてロカビリーバンドの『ブルー・キャップス』を結成します。
翌年1958年に『ブルージーン・バップス』を結成すると(メンバーには中村泰士、北原謙二などが参加)、大手芸能事務所・渡辺プロダクションに所属し、日劇ウエスタンカーニバルへ出演を果たしました。
当時は、非常に人気が高く女性のファンも多かったようで、歌を歌うたびに黄色い歓声があがっていたそうです。
というのも内田裕也さんの若い頃は、今では想像もできないぐらいイケメンで、相当モテモテだったよう。
そんな内田裕也さんの若い頃の画像がこちら!
とってもイケメンですよね。これで歌が上手くて有名なバンドマンですからモテるのもよくわかります。
1960年代中旬から日本でベンチャーズやビートルズが流行したことで、内田裕也さん自身も影響を受けてロック色を強めていき、1966年6月のビートルズの来日の日本公演コンサートでは特別編成バンドとして前座を務めました。
その後、ヒット曲は生まれることはなかったが、1960年代から始まった日本のロックシーンの先駆けとし牽引し、「日本のロックの首領(ドン)」と呼ばれるようにまでなりました。
内田裕也の歴代の写真を貼り付けてみました。
若い頃の短髪アイビールック 30代のカーリー
40、50代のバンダナ+長髪(短いときもありました)
老年晩年期の禿+白髪の長髪+サングラス+杖といういでたち
恐らく誰の真似もしていないと思われる独創的なもので
将来内田というとこの頃の写真は引用され pic.twitter.com/xAV1r0jd2q— HR_39 (@HR_39) 2019年3月18日
内田裕也さんの樹木希林さんとの出会いや馴れ初めとは?
1963年には、恩地日出夫監督の『素晴らしい悪女』に映画初出演し、俳優としても活動し始めた内田裕也さんですが、樹木希林さんとは出演していたドラマ『時間ですよ(TBS系)』の撮影現場で出会いました。
内田裕也さんが友人のマッシュかまやつひろしさんを撮影現場まで訪ねて来ていたこところお二人は知り合ったとそうです。
その後、内田裕也さんと樹木希林さんは初デートをし、その日に樹木希林さんが誘う形で一夜を過ごしました。
その翌日には、内田裕也さんが樹木希林さんにプロポーズをしてそのまま同棲生活スタート。それから約5ヶ月後にの1973年10月10日にスピード結婚をしたそうです。
かなり驚くべき急展開なお二人の結婚ですが、その後亡くなるまで夫婦としてあり続けたということで、よっぽど気が合うお二人だったのかもしれません。
内田裕也の若い頃ホントにタイプだし、希林さんの訃報に際しても言及したような気がする4枚目の写真が大好きすぎる
ご冥福をお祈りします… pic.twitter.com/b7kp7rX6vV— (@SaoriSpring) 2019年3月17日
当時、結婚記者会見では樹木希林さんは「奇怪な女優にロックバカ」と語り、内田裕也さんは「俺も彼女も普通の人とは結婚できない。その2人が出会えたことを神様に感謝したい」と惚気をアピールしていました。
また、内田裕也さんも樹木希林さんもお二人とも一目惚れで勢いで結婚したそうで、結婚式はジーパンを履いて行ったと言った話もあり、どこまでもロックでカッコいい夫婦ですよね。
さらに樹木希林さんは婚姻届を、内田裕也さんの分も自分で書いて提出していたそうで、こんなコメントも残していました。
「内田裕也さんの全てが好き。けれど彼を好きになると大変だから、生まれ変わったら好きにはなりたくない。」と言う趣旨のことを言っていたそうです。
なんだかどんな発言も行動も全てがカッコよく美しいものに感じてしまいます。それぐらいお二人の関係は素晴らしいですよね。
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内田裕也さんと樹木希林さんとの世にも不思議な結婚生活とは?
これだけ幸せそうなお二人でしたが、残念ながら結婚後、2年ほどですでに別居中だったようです。原因は、内田裕也さんのDVや暴力だったよ言われています。
実際に、結婚当時は毎晩暴れまわり家の中もめちゃくちゃな状態だったそうで、包丁も何本買い替えたか分からないぐらいの壮絶な結婚生活だったようです。
また、渋谷警察署に相談し、すぐに来てもらえるようにお願いもしていたのだそう。
普通はこれだけ暴力が酷かったのなら離婚してもおかしくはないですが、それでもしなかったのはとても不思議な話ですよね。
それだけお二人の絆が強かったのだとは思いますが、そうだとしてもではなぜ離婚には至らなかったのでしょうか?
樹木希林さんが内田裕也さんの離婚届を拒否
内田裕也さんと樹木希林さんの別居生活が始まるわけですが、結果的に離婚という形にはなりませんでした。
樹木希林さんは、1976年2月11日に誕生したお二人の子供である内田也哉子さんを一人で子育てていた頃、1981年3月12日に内田裕也さんは希林さんに内緒で勝手に離婚届を提出していました。
内田裕也さんが離婚届を出した理由としては、後日の開かれた会見で「女として愛せないところがある。不自然な生活にピリオドを打ちたかった」とコメント。
さらに、樹木希林さんがテレビプロデューサー・久世光彦さんとの不倫をしていたことや、娘・内田也哉子さんの写真を勝手に雑誌で公開したことなどが相当頭にきていたようです。
離婚届を提出された事実を樹木希林さんが知ったのは内田裕也さんのマネージャーが伝え知られたことで知り、
急遽自宅で記者会見を開き、60人もの取材陣を通して、内田裕也さんが勝手に離婚届を出したことやお金や女にだらしがないこと、DVが酷くそれに対抗するために包丁を買いに行ったエピソードなどを話していました。
しかし、一方で離婚する気はないとし「すごく美しい人」「やっとここから本当の夫婦に向かってね、歩いていく」などと内田裕也さんに対する愛が失われていないことを示し、
「伏して、頭を下げて、大恥かいても、もう一度戻ってきて欲しい」とメッセージを送りました。
とても寛大で暖かい樹木希林さん、夫婦としてのあり方を改めて考えさせてくれるような話ですよね。まるで映画のワンシーンかのようです。
内田裕也さんと樹木希林さんが離婚で裁判!?
というわけで、樹木希林さんは内田裕也さんが提出した離婚届の無効を訴え裁判で争うこととなりました。
1981年5月頃からは、内田裕也さんと樹木希林さんは2度の調停手続に入り、翌年に東京地裁の離婚は無効とする判決が出され再び別居婚という形で落ち着きました。
内田裕也さんのDVにより別居生活をしていたため、裁判官は樹木希林さんに対して「離婚した方がいいんじゃないですか?」と問うほど異例な裁判だったようです。
まあ普通は離婚しないなんて誰がどう見ても不思議に思いますよね。むしろDVを受けていた方が、離婚届を出す立場のような気がします。
それを拒否し、わざわざ裁判まで起こして無効にするなんて、よっぽど内田裕也さんに対する愛が深かったのか、なんなのか。
とはいえ、なぜ離婚を受け入れなかったのかその理由が気になってしまいますよね。
内田裕也さんと樹木希林さんが約40年以上もの間、離婚しなかった理由
樹木希林さんと内田裕也さんは、裁判で争った結果、結局離婚には至らず、そこから約40年以上もの間、別居婚が続きます。
亡くなるまでずっと別居状態であるのにも関わらず、なぜ離婚しなかったのか?普通ならいつ離婚してもいいような気がしますが、お二人の夫婦関係をとても不思議なものでした。
樹木希林さんは離婚しなかった理由について、内田裕也さんのことがただ「好きだから」だったようです。
他にも、「離婚してもまた同じような人を好きになるから意味がない」「あんな男を放っておいたらもっと迷惑を掛けるから、自分がいる事で最後の一線を越えさせないようにしてる」
などとコメントしていました。
また、50歳になった希林さんは「内田さんと同居したい」、60歳後半に入った2010年にも、「来世は会わないよう気を付けたいですが、全部好きです。すべて何もかも好きです」
といくつになっても裕也さん対する愛は変わっていないようでした。
いやー樹木希林さんの愛が深すぎますね。どんなに暴力を振るわれようが、不倫をされようが何があっても好きでい続けられるその理由はなんなのでしょうかね。
もしかしたら人を愛するということはそうゆうことなのかもしれませんね。
また、一方で内田裕也さん自身も2005年に空き巣の被害にあった際、カメラに向かって
「お前が盗んでいった物の中に時計があるだろ。ありゃあ俺の女房からのプレゼントなんだよ」「金なんかどうだっていいからよ。あれ(時計)だけは返せ。俺んちのポストにでも入れとけよ。ヨロシク!」
と樹木希林さんのことを思っているようなコメントをしていました。
やはりお互いが信頼しあっているからこそ、ここまで長い間夫婦としてい続けられていたのかもしれません。
たとえ別居状態であっても夫婦の形というのは人それぞれなのかもしれませんね。
こちらは2017年に公開された樹木希林さと内田裕也さんが出演したCMです。
今見るとなんだか泣けてきてしまいますね。夫婦ってなんだかいいなって改めて考えさせられます。